みんなの就職活動 法の適用と解釈

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法の適用と解釈についてです。

【法の適用】
 世の中は様々である。その世に生起する事象もまた実に様々である。
社会におきる事実も一つとして同じではない。

人の顔が違うように、法が適用される事実も百様である。
この千差万別ともいうべき事実に法を適用するためにはまず第一にその事実を確定しなければならない。
この事実の確定はことの性質上、なかなかの難事である。
法の適用は現代においては、たとえば税の徴収にあたって、税務署が所得税法や相続税法などという法律に基づいて徴税行為を行い、裁判にあたっては裁判所が民法、商法や民事訴訟法、あるいは刑法、刑事訴訟法等の法律に基づいて裁判手続をすすめるように、行政官庁や裁判所によって行われるが、最終的に法を適用するのは裁判所である。

法律実務に関してみると、法の適用にあたって、この事実を確定すること、すなわち事実認定がいかに難しいことかということをしみじみ感じさせられるものである。
特に刑事事件の場合には、ひとたびこの事実の認定を誤れば被告人の人権を、それこそ、とりかえしのつかないかたちで侵害してしまう。
それだけに事実の確定はきわめて重要な意味をもってくる。

事実が確定されれば、次にこの事実に対して法を適用していくこととなる。
裁判所が法を適用する手続は法律でくわしく定められる。
民事事件については民事訴訟法が、また刑事事件については刑事訴訟法がそれぞれの手続を詳細に定めている。
そのほか、行政事件については行政事件訴訟法、人事訴訟については人事訴訟手続法などがそれぞれ、特別な訴訟の手続を決めている。

さて法の適用にあたっては、その法のもつ意味・内容があきらかにされる必要がある。
そもそも法が何を求め、何を禁じているかが明確にならなければ、法を具体的な事実について、実現していくことは不可能であろう。
こうして法の適用にあたってはその事実関係を規律すべき法の意義・内容が明確にされなければならないが、この法のもつ意味・内容をあきらかにする操作がすなわち、法の解釈なのである。

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【法の解釈】
 法律というものはもともと、実際の世の中において発生してくる種々様々な事件に適用されることを頭において制定されている。
法律の存在形式はなにも成文法に限らず、慣習法や判例法など不文法も立派な法源である。
解釈が特に必要なのは成文法についてである。

前述したように、社会事象は千差万別、まことに多種多様である。
法律もそのいちいちを予想してこれに対処できる具体的な定めをしておくわけにはいかない。
それは不可能なことである。
いきおい、法律は多数の具体的事件を解決する規範や基準を含みうるように、抽象的・一般的な表現形式をとらざるを得ないこととなる。
そういう表現形式のもとに規定しておいて、ある具体的な事件が発生した場合に、ある法律がその事件に適用されるかどうか、法文の意味するところをあきらかにしていくこととなる。

こうして法律の意味・内容をあきらかにすることが法律の解釈なのである。

解釈という学習作業がつきまとうのはなにも法律学に固有のことではない。
漢文や古典、音楽、絵画などについても解釈がついてまわる。
しかし、法律の解釈はほかの分野で必要とされる解釈と異なる面をもっている。
そこには常に公共の秩序と人権の擁護との調整とか、私人間の権利義務の調整というような法律学特有の調整原理から一歩も離れることが許されないという面がある。
難しいが、それだけにまた、そこに法律学を学ぶ喜びがあるといえよう。

法律の解釈が歴史的に変遷するのもおそらくこのことと無関係ではあるまい。
紛争や社会問題のかたちは変わらなくても、ものの考え方、価値判断が変われば紛争を解決する基準もまた変化するからである。
法律の解釈というものがいかに複雑で難しいことか、殺人罪を例に考えてみよう。
殺人罪については刑法199条が「人を殺したる者は死刑又は無期若しくは3年以上の懲役に処す」と規定しており、殺人罪は犯罪のうちでも、
一般の人々の常識である程度は理解することができる犯罪類型である。
一見、さして問題もなさそうである。

しかし、ある具体的な事件が発生したとして、これへの適用をめぐっての解釈となると、
私たちはそこに多くの問題点が伏在していることを知らされることとなる。
「殺す」という行為は手段・方法を問わないから、母親が乳児に乳を与えず、不作為によって乳児を死に追いやった場合も母親の行為は殺人といえそうであるし、おろかな被害者をだまし、いったんは縊死しても容易に蘇生すると信じさせ、自ら縊死せしめた場合もなお殺人といえよう。

また、殺人は生命のある人を殺す犯罪だから、その客体が人でなければならない。
客体が胎児であっては堕胎罪が問題となっても、これを殺人とするわけにはいかない。
とすると、胎児が人となるのはいったいいつからという問題が生ずる。
胎児のへその緒を切り、胎児が自分の肺によって呼吸をしはじめた時だとする学説もあったり、陣痛が始まった時とする説もある。

また、胎児のからだが母体の外に全部露出した時であるとする見解もあれば、いや、胎児のからだが母体の外に一部でも露出すれば、もうその時からそれは殺人の客体たる人となるとする見解も有力に主張される。

通説、判例はこの一部露出説をとり、その理由を胎児のからだが一部でも母体外に出れば、母体と関係なく直接に侵害を加えうることとなるので、この時点から「人」として保護する必要があるという点に求めている。

さらに殺人については、旧刑法は尊属殺人罪の規定をおき、自己または配偶者の直系尊属を殺したものを重く処罰することとしていた。
被害者が直系尊属であるというだけで特に重く罰することは憲法上の法の下の平等の原則に反しないか、それは人を社会的身分によって差別することとはならないのであろうかという議論も基本的な問題として検討されなければならない。

また、世の中には困った男女がいて、二人の愛がゆき詰まったあげく、「邪魔者は殺せとばかり、偽装心中をはかったりすることもある。
自分は後を追って死ぬ意思がないにもかかわらず、相手に追死を信ぜしめ、これを自殺するにいたらしめる手合いである。
これを自殺関与罪ないし同意殺人罪とするか、それとも通常の殺人罪として問疑すべきかということも問題であろう。
相手の自殺を利用した一種の殺人とみることもでき、判例は普通の殺人罪が成立するとしている。

以上はいずれも判例の上で問題となったのだから、実際に殺人罪の適用をめぐって解釈上論議されたものばかりである。
このような一見、さほど問題となる疑点のなさそうな殺人罪の規定でも、これを実際の事件に適用するとなると、いろいろな解釈上の問題点が出てくるのである。